ニュージーランド

野菜 男性

<ニュージーランド野菜研修報告>

 私がNZに滞在したのは2007年10中旬~2008年4月中旬までの半年間でした。この間に研修したのはたった2か所の農場だけでした。理由はただ単に、何度も引っ越しをするのがめんどうだったからです。
  まず、出発時寒くなってきていた環境がいきなり変わってしまい、暖かな春を迎えていたことに違和感を感じ戸惑いました。ただその中で、桜がきれいに咲いていたのは印象に残っています。が、それもつかの間、持病の花粉症が襲ってきて一気にイヤになり、着いて早々ホームシックに見舞われました。

1) ウィルコックス
期間・2007年10月16日~2008年3月14日
場所・プケコヘ(オークランド郊外)
※研修内容
 ここはNZを代表する大規模な農場でした。じゃがいも、人参、玉ねぎ、柿の作付けをしていてほぼ全て機械による作業ばかりです。総面積は3000haあまり、プケコヘ以外にも2つの場所に支部がありそれぞれが大きな農場なのです。どの街のスーパーに行ってもウィルコックスの野菜を目にすることができ、その幅の広さには驚くばかりでした。
 研修を始めた頃はじゃがいもの収穫真最中で、いきなりトラクター。しかも牽引。何がなんだかわからず無我夢中で運転を覚えました。作業内容はトレーラーを引っ張ったトラクターを運転しながら収穫機に横付けして、掘られてくるイモをトレーラーの上のビンに上手く入れていく、というものでした。

001.jpg

 
 作業時間は朝7時にショップへ出勤。それから畑まで車で移動。遠い所では30分かかる場所まで行くこともよくあり、朝なので再び睡魔が襲ってきて道中爆睡。これがほとんど。たまに一緒に乗っていたインド人に寝るなと怒られます。でも寝てないと嘘をつく。また怒られる。やっぱり寝ちゃう。時にはワザと強くブレーキをかけて睡眠を妨害されるなんてこともありました。

 この7時に出勤という時間はどんなに忙しくなってきても変わることはありませんでした。お昼を12時から30分間とって終わりは基本的に5時と決まっていました。昼の前と後に15分ずつの休憩もありました。基本的に5時が終わりとはなっていましたが、忙しくなってくると定時で上がれることは全くなく、6時、7時が当たり前になったこともありました。時にはもういいでしょ?帰らせてよ、と思う時間帯までやっていたこともありました。  

002.jpg 003.jpg

 私はかなりのなまけ者です。始めは朝7時なんて余裕だろうと思っていましたが、終わりが遅くなってくると早すぎでしょ!としか思えませんでした。加えて雨の日とか。朝から大雨だと7時に出勤してもすぐ仕事が始まることはめったになく、大体1時間近くオフィスでボケーっと過ごしていた、というか寝ていたことが多かったです。じゃあ8時出勤にしてくれ~とよく思いました。夏を目の前にした11月、12月は特に雨の日が多かったのを覚えています。しかもNZの夏は短く、1月を過ぎると日の出は一気に遅くなり、普段起きていた時間があっという間に真っ暗になっていました。

 休みは週休2日がほとんどでした。忙しくなってくると週1日。休みが全くない週はありませんでした。その他にクリスマスには5連休、年末年始にも5連休がありました。

004.jpg

 収穫の真最中に来たと言いましたが、配属されてからすぐトラクターに乗らせてもらっていたために最後までトラクタードライバーとして雇ってもらえました。ジャガイモの収穫から人参に変わり、最後の玉ねぎまでずっとトラクターの運転をさせてもらいました。この、毎日ひたすらトラクター作業というのも自分のなまけ癖を悪化させる原因になりました。辛いことは殆どなく、冷房の利いた中でラジオの好きな音楽を聴きながら運転。仕舞いには一人で歌い出す始末。疲れたのは肩や、首ぐらいでした。

 難しかったのが玉ねぎです。じゃがいもとの収穫スピードが圧倒的に違うのです。しかも回転も速かった。満杯になったビンを降ろして来るまでに、少しのつまずきが大きな遅れとなってくるので焦りました。1台の収穫機にトラクター3台、時には4台ついた時もありましたが、間に合わないこともあったくらいです。一旦始まると最後まで常に追われている感じ。精神的にかなり疲れました。その速さについていけず、何度も玉ねぎを畑にバラまいてしまいよくインド人に怒られました。何故かボスではなく。

005.jpg
006.jpg
007.jpg
008.jpg

 ボスは忙しい人だったので、一緒に働いたというのはほんの数回程度しかありません。毎日色んな場所へ行ったり、作業の工程を決めたり、打ち合わせ、連絡など他にやらなきゃならないことがたくさんあったのでしょう。朝オフィスで顔を合わせたらそれっきり一日中会わないこともよくありました。

 大きな会社の形態になってしまったら、それはやむを得ないことかもしれません。ただ私にはボスと話す時間がないこと、一向に仲良くなれないことには寂しさを感じていました。会社のこと、この土地のこと、ボスのこと、昔はどうだったのか、そしてどうしてあそこまで大きくなったのか、大きくしなければならなかったのか。聞きたいこと話したいことはたくさんありました。でも結局、農場を去るまでボスとの距離は縮まりませんでした。

 そこの生活に慣れてきた頃には、私のなまけ癖は次第にひどくなっていきました。体を動かし、汗を流しながら作業することが面倒くさく感じていたのです。よく雨が降った日や、その次の日はトラクターが畑に入れないので体を使った作業が多かったのですが、正直しんどい。やり出せば意欲が湧いてくるけれど、また次の日も同じ作業となると、いやでいやでたまりませんでした。自分でもまずいとわかっていても、まぁいいかと諦めてしまう。だって、すぐトラクターに乗れるんだもの。まぁそれで後で痛い目に合うのですが。

 5か月という期間そこで研修をしていて、ウィルコックスの人間模様(畑で働く人たちだけですが)が見えてきていつも笑わせてもらいました。一人一人個性が強くてよくお互いが話しをしていましたが、それぞれ言っていることは自分中心でバラバラ。話し方、笑い方、行動の仕方、それぞれの立ち振る舞いどれをみても面白すぎでした。ただ、初めての人種だったので腹が立つこともよくあり、仲よくなれない人もいましたが。

※プライベートで
 研修生の住まいは柿のパッキングハウスの2階を増設したところで、割と綺麗な部屋を大きく使わせてもらっていました。他に2人の日本人研修生と一緒に暮らしていましたが、広すぎたのでいつかたくさん人を呼んでパーティーを開きたいというのが自分たちの希望でした。でも始めの頃は周りに友達なんていないので金曜の夜から飲んだくれてへべれけ~、がしょっちゅうでした。
 忙しくなってきた12月下旬から2月中旬までは、支部から2人のワーカーもやってきて一時は5人で暮らしていました。 

009.jpg 010.jpg

 自分達には自由に使える車を1台与えてもらっていたので、休日の行動の幅は俄然広がりました。住んでいた家から一番近くの街までなかなか遠かったので、車は何をするにも必需品でした。オークランドへは40~50分だったので便利な場所に住んでいたと思います。週末は都会へ出かけ、クラブなどへ出会いを求めてあっちこっちに出没していました。しかし、自分らに色気を使えるほどの英語力もなければ、遊び方もわからない。どうしていいかわからず、何故かその場のノリで男子と意気投合。女の子とは仲良くなれず撃沈でした。

 加えて、セキュリティーの人たちの私たちに対する風当たりが何故か強かった。中国人があまり好かれていないという話は聞いていましたが、それで同じアジア人だからなのか、はたまた中国人だと思われたのか、ことごとく入店を拒否されました。表面上は服装が気軽すぎると言われましたが、同じ服装をした白人は目の前を笑顔で通過して入って行く。色んな場所で同じように扱われ、もの凄く腹立たしい思いをしました。

 自分たちはどうしてそんな差別を受けなければならないのかと、いつも疑問に思っていました。だから次第に遊び方も変わっていったような気がします。ただその度に、この人たちに日本語が通じれば、どれだけ自分の意見も言えて少しは有利な立場に持っていけるだろうと、幾度となく悔しさを感じました。
それは仕事や遊ぶときも同様で、絶対この人たちより自分の方がおもしろいだろうといつも考えていました。

011.jpg 012.jpg

 プケコヘの街を散策していた時、たまたま入った店で働いていた日本人の方と知り合うことができ、その人の紹介でたくさんの日本人の方々と仲良くなれました。自分たちの住んでいた街や周辺はちっぽけな所だと思っていましたが、意外にもそういう場所に暮らしている日本人の方々は多かったことに驚きました。
 特にオーペアという仕事をしながら現地で暮らしている日本人女性には、大変お世話になりました。合宿のような生活していた私たちに家庭の温かさを与えてくれ、その方から友達も紹介してもらいました。農場を去る前にはたくさん楽しい思いをさせてもらい、おかげで念願だったホームパーティーを開くこともできました。
 異国の土地で日本人と知り合うことができ、その人たちの優しさに触れ交流を築けたことは私のなかで貴重なことでした。

 人との繋がりは不思議なものです。いつも週末通っていた近所のフィッシュ&チップスのお店に自分好みの女の子が働いていました。行くたびに上手く話すことができず、いつか仲良くなりたいなぁと思っていました。でも、そんな思いも虚しくただ月日が流れていきました。
 そんなある日、ひょんなことからお隣の家族と仲良くなりました。そこのお父さんがなかなか面白い人で、よくお酒を飲みながら山羊を連れて敷地内を散歩していました。しかも歌いながら。仲良くなったとき、お父さんの隣に自分が思いを寄せていた女の子がいたときはあ然としました。

お、親子だったのですか!?と。

しかもその子はすぐ隣に住んでいたという事実。そしてお父さんは私たちの仕事場で週に一回、周りの草刈りをしてくれていました。今まで見たこともなかったし、気づきもしかったので、その事実を知ったときは衝撃的でした。色んな意味でその家族との距離は一気に縮まったはずなのですが、気づけば私の恋はいつの間にか終わりを迎えていました。

013.jpg 014.jpg

 私は以前に海外経験があったので、出発まで英語の勉強はろくにせずなんとかなるだろうと思っていましたが、実際どうにもなりませんでした。渡航前に準備をしておくことは決して無駄ではないと思います。
あと私は始めに現地での語学学校へ通うことはしなかったのですが、それも後になって後悔しました。向こうの言葉に慣れるというのは一番の目的ですが、友達を作れるというのは何よりも魅力的だと思います。自分たちとは違う目的で来ている人達もたくさんいるみたいなので、そのあとの関係は俄然広がっていくはずです。

 最後にそこで一緒にくらしていた日本人研修生2人と、遠く1時間以上かけてよく遊びに来てくれていた酪農研修生と共に、楽しく過ごせたことへ感謝です。よく、1人で配属されたほうが自分が大きく成長できるから有利だと言いますが、自分は決してそんなことはなかった。一緒に生活していると考えることもあったし、楽しい思いもたくさんできた。普通にしていれば起こらない出来事に何度も遭遇し、その度にてんてこ舞いになり、なんとか乗り越え、そこから学ぶことも多かった。今だから笑い話にできることもあるけれど、当時はなんでこんなにトラブル続きなのだろうと思いました。でもそれは絶対に1人では体験する事はできなかっただろうし、1人では乗り越えられなかっただろうと強く思います。

2) ヨハン農場
 私はこの農場へ1人で配属され、ズッキーニ収穫は終わったと聞かされていました。なのでこれから簡単なことばかりなのでいい時期に来たなと言われ、この上ない位の安心感に包まれたのを覚えています。というのも、ここは休みもなくかなりハードな農場だと聞いていたからです。
 朝は6時45分に家を出発して、15分ほどかけて畑まで向いました。着いて早々怒涛のようにズッキーニの収穫が始まり、その時初めて、あ、騙された。と思い逃げ出したくなりました。

015.jpg

 作業時間は12時から30分間昼休憩があり、午前と午後に15分ずつの休憩もあります。終わりは17時と決まっていました。収穫が終わったわけではなく、終わりかけということで毎日定時に上がれたのかもしれません。少し救われた気がしました。そのおかげで、日曜は完ぺきに休むことができましたから。

 ヨハン農場の大ボス・ヨハンは、もともと更に北に位置するカイタイアで農家を営み始めました。次いでケリケリにも進出してきたためそこには別のボス、タイ人のナットがいました。彼は若く妻子持ちで、仕事が早くいつも一生懸命。しかもイケメン。研修生にも紳士的に、より近い目線で話してくれるのであっという間に打ち解けました。

 収穫内容はナイフとバケツを持ち、常に腰を曲げている作業の連続でした。加えてケリケリはプケコヘよりも暑かった。秋とは思えない程の日差しで、体力は一気に奪われました。そんな状況も手伝い、私はすぐに音を上げて休んでばかり。彼はひたむきに作業を続けていて、その真っ直ぐさが自分の心に痛かった。休みながら自分のペースでいいよと言ってくれるので、その言葉に甘えてしまいすぐ諦めてしまう。情けないなぁと感じていながらも、正直しんどくてやりたくなかった。明らかに自分の体が収穫作業に、仕事に拒否反応を起こしているのがわかりましたから。だから、遅い、一向に進まない、消化できないという状態が続きました。でも、焦ることもなく自分からヌルイ状態にどっぷり浸かっていました。

016.jpg

 1週間ちょっと経った頃、収穫が終わりを迎えたので私はヨハンのいるカイタイアへ移動になりました。そこは様々な野菜を作っていましたが、既に収穫は終了していたのでその後片付けに来たのでした。内容はひたすらマルチはがしでした。
 カイタイアはケリケリよりも更に暑く、私には夏と大して変わらない温度のように感じました。そこは1年中温暖な気候で、冬が近いからと言って寒いということはほとんどないと聞きました。その中でのマルチはがしは予想以上に辛く、畑は長くマルチは重い。ケリケリでもそうでしたが、この農場でやる作業は体力、気力、根気が必要で今の自分にとって欠けているもの達の集合体のような気がしました。

 ヨハンは仕事に対する姿勢はもちろんのこと、気さくな人でいつも冗談を言っては大笑い。奥さんとラヴラヴで家庭を大事にする人でした。彼は私のなまけ癖をすぐに見抜きましたが、それをネタに笑い飛ばすくらいで不快な感じは一切なく、気持ちのいい空間でした。

017.jpg

 ヨハンもナットも自分を犠牲にしながらも一生懸命に働きます。けど、ワーカーに対してその頑張りを押し付けることは一切ありません。気遣いは安心に変わります。ある時ふと気付いたのですが、ヨハンは一向に上達しない私に、しっかりしろ、もっと早く、頑張れなんてことは一切言いませんでした。笑いながら近づいてきて、さりげなくアドバイスをくれます。それどころか、自分が頑張る姿を見せることによって私の向上心を促そうとしてくれていたのでした。それはナットも同様だったのです。
それに気付いた時は遅すぎで、農場を去る直前でした。ただ、安心がやる気に変わった瞬間でもあり、仕事しようって思うようになれたのは間違いありません。

 研修中、ボスたちとコミュニケーションをとることができたのは良かった。2人は私に、北海道に興味を持ってくれ、たくさん話しかけてきてくれました。時にはヨハンの奥さんも。それが何よりも嬉しかった。だから話す機会をいつも与えてくれ、色んなことを聞くこともできました。私は最初から情けない姿をさらけ出しているので、何も気取ることなく喋れたのも大きかったかもしれません。しかも彼らは、ずっと私をダメな奴だと決めつけず話してくれました。その交流こそ、私が異国の地でずっと望んでいたことでもあったのです。

 ただ、今あの農場はナット夫婦がタイヘ帰国してしまったため、ヨハンはカイタイアを売りに出しケリケリ一本で頑張っています。後継者がいなくなり苦労していると思います。状況は変わっているはずです。

 あそこほど私たちを成長させてくれる研修先は多くないと思います。この人たちのために頑張ろう、もっとやろうと思える環境はすばらしいと思います。変わるならいい方向に変わってほしい。すぐに良くなれとは言いませんが、時間をかけてでもまたいい受け入れ農家になってほしいと願います。

 始めは最終旅行前の軽い小遣い稼ぎで来たのに、自分を変えてくれ、1ヵ月もいない農場に情が沸いてしまったのは明らかでした。だから最後は辛く、ありがとう、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。


3)

最終旅行
 4月なのに真っ黒になっていた私は、ずっと憧れていた南島クイーンズタウンへ行き、情けない声を発しながらバンジージャンプを跳びました。

018.jpg 019.jpg